いつも投稿をご覧頂きありがとうございます。
毎日投稿をしていると、「自分の知識や経験」など「記事にしたいこと」を、「伝わりやすい文章にする」のにわりと頭を使います。(そして考えるのが面倒になると端折った記事になりがちです)
この、「伝えたいことを伝わりやすく言葉にする」ためのコストを、私は個人的に「言語化コスト」と呼んでいます。(ググっても出てこないので、もし流行語大賞が取れたら受賞者は私という事でいいですよね?)
齟齬のないコミュニケーションのために
この「言語化コスト」は、「発信者」が負担すべきものです。(ちゃんと伝えたいのならば)
たまに「ちょっと何言ってるかわからない」ようなネットニュース記事とかもありますけど、執筆者が言語化コストをケチって適当に書いた記事は「読む価値無し」とされておしまいです。少なくとも「読解できない読者が悪い!」には絶対ならないはずです。
(入試の「現代文」に採用される文章って、そういう意味ではあまり出来のいい文章ではないと個人的に思っています)
ところがです。世の中には「察する」ことを求めてくる場面って結構ないですか?
それって、ちょっと図々しくないですか?と声を大にして言いたい。
「対人力・コミュニケーション能力を高めるために察する力を鍛えよう」的な書籍もわりとあったりしますが、受け手側が能動的にそこを鍛えようとするのは問題ないんです。なぜならそれは「伝えたい」側の都合ではなく「理解したい」という受け手側の欲求から生まれるコストなので。
問題だと思うのは「察してください(それが当然です)」という態度です。
「言語化コスト」を省略した代わりに生じるもの
発信側が「言語化コスト」を負担せず、相手に「察する」ことを求めると、相手側には「察するためのコスト」が発生します。
具体的には、「表情や声の調子、発汗や視線移動から心理を推測」するといったスパイ映画さながらの観察力ですとか、あるいは広義には「正確に察せなかった」責任を負わされる(or かもしれない)という心理的な負担だったり。
いずれにせよ、だいぶ理不尽な話です。
誰も得しない
相手の「察する力」が無限大で、どんな場面でも的確に察することができて、なおかつそれを一切負担に感じない人ばかりだったら、「察してください」で世の中は回ります。それが良い事か・住みやすい世の中かどうかは別にして。
ところが、「察する力」って、人それぞれ違うんです。生まれも育ちも何もかも違う相手が、誰でも完璧に自分の思いを「察して」くれることなど、はなから期待すべきではありません。
するとどうなるか。
「察してくれなかった」とか「変な勘違いをされた」とか、まぁ要するに「ロクでもないトラブルが多発する」のは想像に難くないわけです。それって、発信者(発信せず「察してもらう事」だけを期待している人物を「発信者」と呼んでいいのかどうか大いに疑問はありますが)自身も含めて、誰も得していない状況ですよね。
結論
どんな「想い」も「考え」も「要求」も、相手にちゃんと伝えたければ相応の「言語化コスト」を負担するべき。
もちろん、「察することが得意な人」「上手く察してくれる相手」というのはありがたいし、それ自体を決して否定はしないけども、「察して当然」「察しない奴が悪い」という思考は、一方的なコストの押し付け(着払いで突然荷物を送りつける行為に等しい)であり、好ましい考えではない。正しく言語化して伝えなかったことは、伝わらないのが当たり前。察してくれたら「ありがたい」事と思うべし!
・・・この記事書いてて、なんか自分ってめんどくさい奴だなと思いました、はい。